教会の中の人間関係で傷つけられないために(その6)

 (その2)から(その5)では牧師から傷つけられることについて考えてきました。
 (その6)からは教会員どうしのトラブルについて考えていきます。
 教会員どうしのトラブルについて考えるにあたって、「パリサイ人」という言葉が一つのキーワードになるように思います。
 今回から数回にわたってパリサイ人について、取り上げていこうと思います。

<パリサイ人が出現するメカニズム>

 パリサイ人とはどんな人かと言うと、別にパリサイという民族や地域があるわけではありません。
 民族としてはユダヤ人なのですが、一般民衆に対して、宗教上の指導をする役割の人がパリサイ人でした。

 一般に人を指導する際には
  何を指導するか
  どのように指導するか
  指導したことが身についたかどのようにして評価するか
  などのことが問題となります。

 指導する内容は具体的な方がやりやすいものです。

 たとえば、旧約聖書には「安息日を聖とせよ。安息日には仕事をしてはいけません。」と書いてあるのですが、1世紀頃のパリサイ人は「安息日に歩いていいのは〇〇メートルまで。それ以上は労働になるからいけません。」みたいな教え方をしていました。旧約聖書の教え(以下「本来の律法」と書きます。)の上に自分たち独自の解釈で新しい決まり(以下パリサイ律法と書きます。)を決めていたわけです。

 評価をする場合にも、測定可能な、達成できたかどうかはっきりと判定できる尺度があれば好都合です。

 指導する立場の人間として、パリサイ人はこれらの決まり(パリサイ律法)を模範的に守ることができます。(自分たちが守れるようなことを決まりにしていると言うべきなのかも知れませんが。)
 パリサイ律法を忠実に守る生活をしているうちに、自分は絶対に正しい。こんなに一生懸命神様に従っているのだから、自分は神様の目から見て優等生であるという意識が深くしみつくことになります。

 もともとの人間の性質として、誰にでもこんなものがあります。
  人に認められたい。
  人から評価されたい。
  高い地位につきたい。
  まわりの人を支配したい。

 これらの性質もあいまって、パリサイ人はエリート意識を持つようになり、それ以外の人を見下すようになります。

(続く)

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