<神様は私たちに人を赦すことを求めておられる。>
聖書の一部を引用します。
マタイの福音書
18章
23,このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
24,清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
25,しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
26,それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
27,しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
28,ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
29,彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
30,しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
31,彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
32,そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
33,私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
34,こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
35,あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
これは人を赦しなさいということを教えるための、イエス様の語られたたとえ話です。
人を赦すことが、借金を免除することに例えられています。
この話の中で金額の単位が二つ出てきます。
デナリとは、当時の労働者の1日分の給料に相当する金額です。日本の現状に当てはめると7000円に相当するものと考えることにしましょう。
1タラントは6000デナリに等しい金額です。
なので、このたとえ話ででてくる100デナリとは70万円、1万タラントとは4200億円に相当することになります。
あるしもべが王様から4200億円の借金をしていました。
王様はこのしもべに借金を返すように言いました。
しもべは、もう少し待ってください。返しますからと王様に懇願しました。
王様はかわいそうに思って、4200億円の借金全部を帳消しにしました。
ところが、このしもべは、しもべ仲間に貸した70万円を取り立てようとしました。
このしもべ仲間は、もう少し待ってください。返しますからと懇願しました。
このしもべは、しもべ仲間を待つことも赦すこともせず、牢に投げ込んでしまったのです。
ことを知った王様は、怒って、仲間を赦すことのできなかったこのしもべを投獄しました。
この話からわかることがいくつかあります。
(1)私たちの神様に対する罪は想像を絶するほど大きい。
この話の中では、しもべの王様に対する借金は4200億円でした。
もしこんな借金があったら、自力で返済することなんて、まったく不可能です。
2018/10/29 人をさばいてはいけません。(その11)
で姦淫が死刑に当たる罪であると書きました。
私たちは、神様の目から見たら死刑に当たるような罪を、生きているうちに何百回も何千回も犯してしまうものです。自分で反省しても、自分で償おうとしてもまったく不可能です。
(2)人間どうしの罪は大きいように感じられても、よく考えれば大したものではない。
しもべ仲間が、このしもべにしていた借金の額は70万円でした。
日常的な感覚では、70万円という金額は決して小さいものではないと思います。ですが、王様から帳消しにしてもらった4200億円と比べたら、わずか60万分の1の金額です。
人間どうしの間の罪は、大きいもののように思えても、大したものではないと言えます。
誰かが自分に対して罪を犯したとしても、自分もその相手に対して同様の罪を犯してしまうかも知れません。その相手ではなく、別の人に対して同様の罪を犯すこともあるでしょう。
罪を犯すという点では、人間というものは「五十歩百歩」、「どんぐりのせいくらべ」、「目糞鼻糞を笑う」という状態なのです。
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