今日はクリスチャンネタです。
以下の文章は2011年に書いたものです。
2ちゃんねるの掲示板で
>クリスチャンは排他的。
>熱心に信仰したり活動してる人じゃないとついていけない空気を醸し出している
との書き込みがあったので、それに対して書きました。
わかりにくいところがあるかも知れません。
ご意見、ご感想、ご質問などお気軽にお寄せください。
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>クリスチャンは排他的。
>熱心に信仰したり活動してる人じゃないとついていけない空気を醸し出している
クリスチャンは傲慢になりやすいと思います。
自分は神様の側にいるのだから、絶対正しい。自分はこんなに一生懸命に神様を信じ、従い、仕えているのだから、自分は神様から見て優等生だと思い込みます。
神様を信じない人や、神様に対して熱心でない人には、その人を正してあげないといけないとか、教えてあげないといけないとかいうふうに考えがちです。
イエス・キリストが人として生きておられた時代には、パリサイ人や律法学者がそういう人たちでした。
私もかつてはそんな人間でした。今でもよほど気をつけていないと同じような失敗を繰り返してしまいます。
クリスチャン生活上の事柄について、自分はできているのに、それができていない人を見つけると、だめなクリスチャン、悪いクリスチャン、劣ったクリスチャンとさばいてしまって、それがその人に対する言動にあらわれてしまうのです。
自分がどんなにひどい罪人だったか、そして、そんな罪人であった私でさえイエス様は無条件に愛してくださり、十字架上で命を投げ出してくださったということを思う時に、自分には人をさばく資格はないとつくづく思わされます。
人間の目から見て、信仰生活的に優れた人、劣った人という判断はあるかも知れません。でも、神様の目から見たら五十歩百歩でしょう。さばきあったり、優越感や劣等感に翻弄されるのは、ナンセンスです。
人はそれぞれ違ったものとして、神様につくられています。どんな人にも、長所があり、短所があるのです。神様は私たちにさばき合うことを求めておられるのではなく、愛し合い、仕えあい、励ましあうことを求めておられます。この世の教会で、またクリスチャンの集まりでこれが実現したら、どんなにすばらしいでしょう。
クリスチャンとは言っても、罪を赦された罪人にしか過ぎません。罪の性質は残っていますから、死ぬまで罪を犯しつづけるでしょう。生きているうちに、罪のない、完全な状態に達するクリスチャンはいないと思います。だから、悲しいことですが、クリスチャンは、これからもずっと排他的であり続けるでしょう。でも、自分は排他的になりやすい人間であるとか、パリサイ人的になりやすい人間であるという自覚があれば、また、その教会や、クリスチャングループにその自覚があれば、主に癒しや解決を祈り求めることができます。そうなれば、ずいぶんその空気は変えられるのではないかと思います。
クリスチャンでない方には、分かりにくい文章になったかも知れません。ごめんなさい。
コメント
いきなりすみません
教会に行くと劣等感を刺激されます
だから教会に行かなくなって数年たちます
なぜかというと牧師が自分の子供の生まれた時の話
育児の話ばかりするからです
自分に子供が授かって大喜びなのは理解できますが
それを礼拝の説教の中で大々的に語られると
子供のいない私は
「いい年して子供のいないものは人間の出来損ないだ」
と言っているように聞こえてしまいます
杉田水脈氏の「子供の産まない人は生産性がない」とか
麻生氏の「産まないやつが悪い」とか
この人たちもクリスチャンなんですよね!!!!
やっぱり教会に通っている人や牧師や牧師夫人からしたら
子供を残さない人は欠陥品に見えるんでしょうか?
そうだとしても私は責める気はありません
不愉快なので礼拝に行くのをやめているだけです
それに劣った人間を見下すのは人間の本質です
劣った人間をじりじり追い詰めて自滅させることで
社会集団の性能を引き上げようとするいわば本能です
私がサタンの子になったのは
私に価値と能力がなかったせい
そしてそれを教会の中で思い知らされたせいです
私はクリスチャン全員を疑っています
私のことを人間の出来損ないと思っているのではないかと
まぁ疑いもくそも
事実なんですけどね
私にもちゃんと価値と能力があればまともに信仰生活ができたはずなのに
残念です
>>1
コメントをありがとうございました。
私の持論ではありますが、クリスチャンとは言っても、欠点や弱さを持った発展途上の人間です。必ず罪を犯しますし、周りの人を傷つけることがあります。
すべての教会についても、同様に、それぞれ欠点や弱さがあって、永遠に発展途上です。必ず罪を犯しますし、教会員を傷つけたりするのです。
だから、私は、どのように立派に見えるクリスチャンに対しても、完全に信頼したり、従ったりしません。また、どんなにすばらしいと思える教会があったとしても、そこに自分を完全に明け渡したりすることはありません。
相手がクリスチャンであっても、教会であっても、相手が不完全な存在で過ちを犯すのが当然だという前提で接すれば、自分が傷つくことも少ないのではないかと思います。
人があなたを「サタンの子」と呼んだとしても、神様は決してそんな言い方はなさいません。神様にとってあなたは大切な人です。神様が大切に思ってくださっているあなた自身を、あなたも大切にしてあげてください。ありのままの自分を受け入れて、愛してあげてください。