教会の中の人間関係で傷つけられないために(その14)

<神様は結果ではなく、動機や過程を見られる。>

 (その10)で書きましたが、人はほかの人の心の中を見ることができません。
 なので、人がほかの人を評価する時には、行動やその結果を見て評価することになります。

 顕著なのはプロのスポーツの世界です。
 評価されるのは結果です。
 成績が良ければ、試合に出られるし、年俸が上がります。
 成績のいい間は、ほめそやされるのに、いい成績が出なくなると、手のひらを返したように、酷評されるようになり、忘れ去られていくのです。
 いくら、死ぬほど努力している選手がいたとしても、結果が出なければ見向きもされません。
 たくさんの選手がいるのに、いい成績をコンスタントに出せるのはほんのひとにぎりの選手だけです。
 大多数の選手は、あまり日の目を見ずに、消えていってしまうのです。
 まったく厳しい世界だと思います。

 学校の成績でも結果がモノをいいます。
 テストの結果や課題をきちんと提出してるかやそのほかの客観的な指標で成績が決まるのでしょう。
 要領の悪いこどもが、その子なりにがんばっていても、目に見える結果が出なければ、悪い成績しかつかないでしょう。

 職場の営業成績なども評価されるのは結果であって、どのぐらいがんばったかとか、がんばりの過程がどんなふうだったかとかは評価されません。

 それに対して、神様は人の心の中をすべてご存知です。
 どのような動機で行動しているのか。どのような環境だったのか。どんな困難があって、どんな苦労があったのか。

 神様は、結果よりも、むしろ動機や過程を評価されるのだと思います。

 ほかの人との競争で、より優れた結果を出せば、たくさんの人が称賛してくれます。
 でも、優れた結果が出せるのは、ほんの少数の人だけです。

 けれども、神様は、私たちの日常の地味な行動を見ておられます。ほかの人よりも優れた結果が出せなくても、どのような動機で生きているのか、どのような過程で結果に至ったのかを見ておられます。
 たとえ、ほかの人が誰も評価してくれなくても、神様は、私たちの心を見て、正しく評価してくださるのです。
 がんばってもできなかった場合、人は評価してくれませんが、神様はそれでも正しく評価してくださるのです。

 私たちは、結果を出して、人から評価されたい、称賛されたいと思います。
 ですが、結果が出なくても正しく評価してくださる神様をふだんから意識して、歩んでいきたいと思います。

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