教会の中の人間関係で傷つけられないために(その9)

<絶対守れない律法があるのはなぜ?>

 (その8)で本来の律法を人間は本当の意味では絶対に守ることはできないと書きました。
 そう言われると、きっと、こういう疑問が起こってくるでしょう。

 なぜ神様は守ることのできない難しい決まりを人間に与えられたのだろう?

 神様を信じて、従おうとする人は、これらの決まりを守ろうとします。
 でも、がんばっても、がんばっても、守ることができません。

 1世紀の伝道者パウロさんは、以前、筋金入りのパリサイ人でした。
 パウロさんはある時、イエス・キリストと出会い、クリスチャンになりました。
 クリスチャンになったあとでたくさんの手紙を書き、それが新約聖書におさめられています。
 その手紙の一つであるローマ人への手紙にこう書かれています。

15,私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
18,私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19,私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
24,私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ローマ人への手紙7章15,18,19,24節

 本来の律法には、神様からの戒めが含まれています。
 何が善であって、何が悪であるかが、この戒めを読むとわかります。
 神様を信じる人は、善をしたい、悪からは離れたいと思います。
 でもパウロさんの言うように、私たちは善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないのです。
 したいと思う善は行わず、したくない悪を行ってしまっている自分を見る時に本当にみじめな思いになります。
 自分の力では自分をどうすることもできません。
 私たちは自分の力では正しく生きることができないのです。
 だれが私たちを救い出してくれるのでしょうか。

 聖書には、この解決法が示されています。

 イエス・キリストは罪を犯さなかったのに、私たちが受けるべき刑罰を、私たちの代わりに受けてくださいました。十字架にかかって、命を捨ててくださったのです。
 「私は弱く、自分の力で正しく生きられません。この私の罪のために、キリストが十字架にかかって、私に代わって死んでくださったことを信じ、感謝します。」
 もしこのように神様に対して表明するなら、その時に私たちのすべての罪は赦されるのです。
 神様を恐れて、逃げ回る生き方から、何度失敗しても、何度でも再チャレンジさせてもらえる、希望、喜びに満ちた生き方に変わるのです。

 まとめると、
  本来の律法の目的は
   (1)何が善で、何が悪かわかる。
   (2)それを守ろうとする過程を通して、自分の力では正しく生きることができないということがわかる。
   (3)キリストによる解決に導く

 パウロさんは聖書の別のところでこう書いています。

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
ガラテヤ人への手紙3章24節

 律法は私たちをキリストに連れていく養育係なのです。

(続く)

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