診療、看護、介護に生かす聖書の人間観(その28)

<神の価値観、人間の価値観(10)>

 〜〜生きる意味のない人はいない。(6)〜〜
  ●病気の末期や高齢のため、意思疎通が困難になった場合

 で
「あなたがどんな状態になったとしても、意識がある間は、あなたはあなたの人生を主体的に作り上げていくことができるし、そのことが期待されているのです。」
 と書きました。
 それでは、各種の病気の末期になったり、認知症になったりして、思考能力が低下したり、意思表示ができない状態になったりした場合にはどうなるのでしょうか。
 生きてはいるものの、自由な思考ができず、自由な意思を持たなくなってしまうような状態です。
 意識的な行動ができず、完全に受動的な状態になります。
 こんなふうな状態になると、自分の人生なのに、それが自分のコントロールできる範囲の外になってしまうわけです。
 こんなふうになったら、生きる意味がなくなってしまうのでしょうか。死んだ方がましなのでしょうか。

 もちろんそんなことはありません。

 言うまでもなく、こんな状態になっても、この人は神様に愛されています。
 神様は、この人のためにすばらしい計画を持っておられて、自発的に自由に動けなくなったとしても、この人自身が幸福であるし、周りの人も幸福になっていくという道を用意しておられるのです。

 こんな状態になると、本人は受けるばかりの存在になります。周りの人は、本人に対して与え続けることになります。
 聖書にはこう書いてあるところがあります。

使徒の働き
20章
35,このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

 これはパウロという使徒が語った言葉なのですが、イエス様は、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたのです。

 私たちは、人から何かしてもらったり、何かをもらったりすることを喜ぶものですが、イエス様はむしろ与える方が幸いだと言われたのです。

2018/6/13 人に迷惑をかけるのは悪いことですか?
 に書きましたが、実は私たちは、人を愛すること、人が喜ぶことをすることによって、自分もうれしく、楽しくなるし、自分の幸せ度が上がるし、自分が成長していくようになっているのです。

 とは言え、実際には、状態の重い人の看病や介護は、本当に大変なことです。
 看病や介護は24時間続く、気の抜けない過程です。
 これを一人でやっていたら、疲れてしまうし、看病や介護がいやになってしまいます。とても幸せとは言えなくなってしまいます。
 看病や介護は一人でするものではありません。必ずたくさんの人をまきこんで、いっしょにやっていかないといけません。利用できるものは何でも利用した方がいいです。

 そうすることによって、本人も周りの人も幸せになるし、周りの人、地域社会、もっと言えば国としての幸福、成長、発展につながっていくのです。
 まさに、神様はこのようなことを、私たちに期待しておられるのだと思います。

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