ささげる喜び〜〜劣等感からの開放〜〜

 これは2008年に私が書いた文章です。
 私がどのようにして劣等感から開放されたか書いてます。
 以下の文章の内容のことに気づいてから、たとえ、自分の中に気に入らない部分があるとしても、自分のことを好きになっていいんだとわかりました。
 今では、私は自分のことが大好きです。もちろん、今でも私は欠点の多い人間ではありますけどね。
 わかりにくいところもあるかも知れませんね。お気軽にご質問などお寄せください。

ささげる喜び

<自己紹介>
最初に自己紹介をさせていただきます。現在私は教会ではいろいろな奉仕をさせていただいています。役員をさせていただいていますし、教会学校の教師もさせていただいています。教会学校では、ドラムを叩いたり、ギターを弾いたりしています。礼拝の中で、時々液晶プロジェクターで歌詞を映し出すようなこともさせていただいています。聖歌隊のリーダーな
どもさせていただいています。まったく下手の横好き状態です。
母、妻、こども3人の6人家族で、みんなで教会に通っています。病院で外科医、救急医として勤めています。

<劣等感>
しかし、私は罪人であり、欠けの多い者、誘惑に負けやすい者、人を恐れやすい者です。どの分野にしても自分よりすぐれた人はいくらでもいるし、自分でなければならないという理由はありません。自分には教会で奉仕にあたる資格はないと思ったこともありました。人前に出て能力のなさをさらけだしたくないと思うこともありました。
自分より能力のある人をうらやましく思いました。教会での奉仕にしろ、病院での仕事にしろ、もっとてぎわよく、早く、確実にできればいいのにといつも思います。どうしてもっと能力を下さらないのですかと神様に祈ったりもしました。

<自分の能力は神様がつくって下さったもの>
長く、こんな思いを持ち続けていましたが、ある時気付きました。自分をこのようにつくって下さったのは、神様であるということです。自分の能力をつくって下さったのも神様なのだということに気付きました。向上のために努力することは必要なのでしょうが、努力しても自分には限界があります。できることはできる、できないことはできない。人にはできて
も自分にはできないということはある。あって当り前なのだ。マタイ二五・15〜30を読むと、人によって5タラント、2タラント、1タラントと預けられたお金が違っています。そのように、神様は私たち一人一人を違ったものとしておつくりになり、それぞれに違った能力をお与えになっているのですね。自分の能力が足りないということで神様に愚痴を言うのは、不信仰であって、神様を讃美し、感謝する姿勢ではないと気付かされました。神様はありのままの私を受け入れて下さっています。私も、自分に気に入らないところがあっても、まず、ありのままの自分を受け入れるべきなのだとわかりました。

<喜んでささげること>
そのことに気付いてから、少ししか与えられていないと思われても、それを感謝して受けることができるようになりました。足りないと思われても、持っているものをささげればいいとわかりました。ヨハネ6章に5個のパンと2匹の魚をささげた少年の話がありますが、少ないと思われるものでも、喜んでささげるなら、主はそれをお用いになることができるのです。
自分が持っているものは、お金であれ、健康であれ、能力であれ、時間であれ、すべて主が与えて下さったものです。それを感謝をもって、喜びをもって主にお返しすることができれば、と思います。与えられたものをすべて主のために使うことができればすばらしいと思います。
与えられた務め、奉仕、機会を感謝して受けて、誠実に忠実にそれに取り組んでいくことが、神様が私に望んでおられることなのだと思います。
第一コリント十・31にあるように食べるにも、飲むにも、何をするにもそれによって神様の栄光が現されるならすばらしいと思います。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ一二・1)

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